That's a life

後生の一大事
善知識の仰せに随い信をとれば、極楽へ参る者なり(御一代記聞書)

カテゴリ: 人生の目的

近年、葬式を簡単に済ませたり墓じまいをしたりと、人の死にまつわる負担を減らす動きが目立つ。その根底には「人々の死生観の転換がある」と、宗教学者の島田裕巳さん(70)。日本をはじめ特に長寿化の著しい先進国では、宗教は必要とされなくなってきたという。とすれば、誰しも免れられない生き死にの問題にどのように向き合えばいいのか。 (大西隆)

◆長寿で死生観が変わった
 -日本の宗教はバブル経済が崩壊したころから衰退の一途をたどっているといわれる。
 日本人が宗教に求めてきたものは大きく二つあった。一つは現世が苦しいから来世での幸福を求める来世信仰。宗派としては浄土宗や浄土真宗といった伝統的なもの。もう一つは現世での幸福を求める現世利益信仰。天理教や創価学会が代表的です。この2本立てで日本の宗教の核をなしてきたが、科学技術や医療の発達を伴う経済発展を遂げて、健康的で豊かな暮らしが実現してしまった。その結果、宗教に頼る動機が失われたというのが原因です。

 -死について思いを巡らせるときのよすがとして必要とされるのではないか。

 宗教の根底には、死後の魂の行方を示す死生観があります。日本人に限らず人類の寿命は最近まで短かった。つまり「いつ死ぬか分からない」という死生観だった。そこで仏教やキリスト教、イスラム教も天国の存在を熱心に説いた。ところが、今では長寿を持て余すほどになった。「いつまでも生きられる」という死生観に転換した。現世は苦しいから来世に期待して善行を重ねようとは考えないでしょう。「大往生」では周囲の悲しみも大きくないし、葬式や墓の費用も抑えたくなる。既成の宗教は時代遅れになりました。
 -統計数理研究所による2018年の日本人の国民性調査では「『あの世』を信じる」は41%に上り、「信じない」の34%を上回っている。

信者の動向






























3年前に母をみとったが、穏やかな死でした。調べると、多くの人は直前に口をパクパクさせる「下顎(かがく)呼吸」をして死んでいく。意識を失い、脳内に気持ちが良くなる物質が出るから苦しまずに息を引き取るという。僕にとって死は恐ろしいものというイメージはないが、人の最期に立ち会った経験がある人はどのくらいいるでしょうか。
 人は年老いて介護が必要になると、多くは老人ホームなどの施設に入る。他人は見舞いに来ないから、それは「社会的な死」を意味する。社会から忘れられて死んでいく。葬儀をしないから、いつどうやって死んだかという事実も伝わらない。人の死がどういうものかも分からない時代の「あの世」とは、浄土とか天国ではなく、社会から切り離された施設のような世界のイメージなのでしょう。

◆既成宗教 アップデートを

 -もはや宗教は無用の長物なのか。

 人間にとって穏やかに死んでいくための心構えは重要です。そのヒントは得られるかもしれない。日本人になじみ深いのは主に神道と仏教だが、神道に具体的な教えがないのとは対照的に、仏教には豊かな言葉がある。それを今の時代にふさわしいものに再定義すれば、活路を見いだせるのではないかと思う。
 例えば「悟り」とは、意外に簡単なことだと考えている。つまり人間の行動はすべて自己満足を目的としている。仏教は「利他」を説くが、それだって自己満足のため。人は達成感を得ると最も満足するが、厄介なのはパワハラやセクハラといった悪い行いにも達成感があること。そうした自己満足しか追求できない人間は、僕も含めて煩悩にまみれた 愚かな存在です。根本的にアホ。仏教ではそれを「凡夫」と呼ぶ。
 人生の終盤に介護されるという弱い立場に立たされたとき、他人に対して怒りや不満を抱いたり、卑屈になったり後悔したりしている「凡夫」のままではダメでしょう。むしろ人に明るさを与えられる、喜んで介護してもらえるような存在になれるかどうか。そういう目線で老いや死と向き合い、自らの立場を覚悟していくこと。それが僕なりの「悟り」。信仰心です。
 既成の宗教は、当然ながら男女平等とか少子高齢化、地球温暖化といった現代的な課題への答えは持ち合わせていない。しかし、そこに詰まっている知恵をアップデートして、新しい見方を導き出す作業は大切だと思う。長寿社会には他人の力が欠かせない。成熟した人間関係をつくる糧になるのではないでしょうか。


平均的に長寿でも死は予想できないし、凡夫は地球を汚し殺し合い十悪を重ねる無明の存在。
必ず死ぬ人間がなぜ生まれ、どう生きるか、釋迦誕生の本懐は五濁悪世からの六道輪廻の救いでは?
教行信証後序に道綽・安樂集の言葉「真言を採り集めて、往益を助修せしむ。いかんとなれば、前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ、連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり」を引用した先達の重い言葉があります。

引用/参考URL
https://www.tokyo-np.co.jp/article/312144?rct=hundred_years  
大経上
大経下 
http://shinshu.in/ 


往生は一人々々のしのきなり(実悟記)p117
しのきの 傍記に 仕退歟 の文字がみえる

は身分の高い人に仕える→するの謙譲語
退はしりぞく・辞める・消極的になる→どける
は文末について疑問・反語(か・や)を示す

往生は各人が弥陀に縋るか、縋らないかにかかっている
※善知識を介した歸命のこと
善知識の仰せに随ひ信をとれば、極楽へまゐるものなり(聞書98)

しのぎは一般に振りかかる困難を乗り切り成し遂げること

参考
https://mojinavi.com/d/u6b5f 
http://www.yamadera.info/seiten/c2/jitugokyuki.htm

・ひらく時 この実を結ぶ 梅の花(春・安心
  鶯は法を聞けと梅に留まり信決定で花と実が同時に生ずる(二重籍)
・さみだれの 繁きがなかに 咲く菖蒲(夏・報謝
  決定後も煩悩は起こるが念仏修行の花が咲く(五念門)
・幾たびも お手かづふれし 菊の花(秋・師徳
  立派な菊の花も次第相承の善知識の御苦労のお蔭(二尊恩徳)
・折るるまで 堪えていよや 雪の竹(冬・法度

弥陀を頼めば南無阿弥陀仏の主になるなり。南無阿弥陀仏の主に成ると言うは、信心をうることなりと云々 また、当流の真実の宝と云うは、南無阿弥陀仏、これ一念の信心なりと(一代聞書237

<私釈>
阿弥陀仏を頼めば南無阿弥陀を所有することが出来ます。則ち弥陀の永劫の思惟修行の成果である真実信心を戴くことが出来ます。当流の真実の宝とは弥陀を頼み即信心を戴くことに他なりません
・主になるは自分のものになる。信心の所有者になる
・弥陀を頼めば大功徳の信心が丸貰い出来これ当流の宝です
・信心の所有は自利利他/念仏修行(五念門)のパスポート


<コメント>
当流では念仏は称えるものではなさそうです
・世間に沙汰するところの念仏と言うは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏と称うれば、助かるように皆人の思えり。それは覚束なきことなり。然りながら浄土一家においてさように沙汰する方もあり。是非すべからず。これは我が一宗の開山の勧め給えるところの、一流の安心の通りを申すばかりなり(御文3-2
では阿弥陀様を頼むとは具体的にどうすれば良いのでしょう?
・善知識の仰せに随い信をとれば極楽へ参るものなり(一代聞書98
・死して後 我が身にそえる宝には 南無阿弥陀仏に しくものはなし(法然上人)

参考URL
http://shinshu.in/

親鸞聖人の和讃などの左訓に

ウツル反 メグル反 カヘル反 サソラフ反 ナガレ反 ・・・・
などの記述がある。

この場合の反の意味(発音)はおおよそ
~と読む。~の意味。
のどれかである。
前者は左訓漢字の音・訓読みを表し、後者は左訓漢字の意味を表している

引用/参考URL
http://ryokeiji.net/jap/01sc/01sc%20shinranshouninnohan.htm
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%B7%A6%E8%A8%93
http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/kuzukago/kundoku,1.html
http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/kuzukago/kundoku,2.html
http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/kuzukago/kundoku,3.html 
http://ryokeiji.net/

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